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定まらない日記

身の回りのことを書きます。アダルトチルドレン、双極性障害。

インターネットネイティブと孤独

人間模様

 おととい、専門時代の友人と1年以上ぶり?に会った。コスプレが趣味で、半年ほど前に定職についた、Wという子。

 

ツイッターで近況らしいことはお互いに知っていたし、昔話とか、好きな漫画の話とか、ペットの話でひとしきり盛り上がったんだけど、なんとなく気疲れしてしまって、そのことがWに伝わっていないかどうか少し不安。Wも気を使って、私の日常生活に必要以上の質問をすることはなかったし、その分相手の話をたくさん聞く、相手からしたらたくさんしゃべることになってしまったような印象を受けた。Wはかなりパワフルに自分のことをしゃべってくれていたし、そんなにストレス与えてないと思いたいが。

 

なんというかね、どんなにある程度仲が良くてもケータイを片手にしてしかおしゃべりが成立しない仲というものがあって、それは相手が誰に対してもそうである場合もあるけれど、私のまわりのオタクの友人というのはそういう感じの人たちが多いんですよね。うーん、うまく言えない。ケータイを片手に、というのはケータイで自分のこと(ラインやメールをチェックしながら)をしながらということでもあるし、友達同士のおしゃべりを盛り上げるために面白い画像をケータイから見せながらしゃべるため、だったりするんだけど。そのことを私がものすごく嫌に思うとかじゃない。相手がそうなら私もあわせてケータイをいじる。でも、あくまで「あわせて」の行動なんですよねえ、といった話。

 

一概に若者はみんなそうとは思わないけど、Wと行ったファミレスの隣のテーブルにいた女の子たちも、会話の内容はオタクな感じだったからまあまあ理解できたんだけれども(するな)スマホをいじりながら1人が独り言のようにつぶやいたことにレスをする、といった会話方式でねえ、なんかもうツイッターそのもので、ネットで知り合った人とオフ会行ったりしたときもこういうインターネットの縮図まんまだなって思う会話のテンション?がもう仕方ないことだけど絶妙に気持ち悪くて。私も人のこと言えるほどネットに毒されてないかっていうとそうでもないんですけどね。

 

私が小学生くらいの頃にブワッとみんなインターネット使い出すようになって、インターネットに関してはかなりネイティブな世代なんですけど、良くも悪くもネットがリアルなんですよねえ、私たちって。この流れはもう止まんないと思う。

 

ただね、Wがなにか話をするたびにスマホの写真フォルダスクロールしてペットの写真を見るたびに、少し楽しくて少し退屈だった。片手にスマホがあるから私たちは楽しくしゃべっていられるんだなって。私に今言えないことが多いのも良くないことなんだけどね。無い物ねだりだとは思いつつ。

 

まあ久しぶりにあったから、お互いにお互いのチャンネルを合わせるのに時間がかかるってこともあるね。1ヶ月おきに会ってる友達とは、ケータイいじってても、話してても、微妙な情報のすり合わせがすんでるからお互い気にしないで好き勝手やってられるし。多分スタイルの違いなのだ。私は人の話を聞く際にスマホをもたないタイプってだけのこと。あんまりしつこく書くと相当気にしてるみたいになるけど、ほんとにそこまで気にしてない。ただこの日は5時間くらいWと一緒にいて、すごく寒い日で、くたびれてしまったのだ。

 

Wが言ったことで印象に残ったのは、「給料、来年度の新卒に負けたくない」だった。今の私にはまるでない感覚。働いていた時も、別に年下の方が大卒だからって理由で給料が良くっても、まあそういうもんだろうくらいにしか思わなかった。もともとお金への執着が薄いし。Wには欲しいものがいっぱいある。行きたい場所も、今後の予定も。そのためにたくさんお金が必要で、それを糧に仕事をがんばっている。なんてこった、これぞ正しい社会人のあり方では!?

 

それにWは、私のことも喜んでくれた。一時期ツイッターのフォローを全員外して1ヶ月ほどやめていた時期があったのだけど、そのときのことも心配してくれていたし、こうやって外で会えるほど回復して良かったよ、と言ってくれた。駅で別れた後も「今日は楽しかった、次は飲もうね」とラインをくれて、ああ去った後のこのやりとり、なんて久しぶりなんだろう、やっぱり育ちがいいんだなと思った。そう、Wは育ちがいいのだ。

 

育ちが良くて、仲の良い両親の元に育った友達たちといると、ほっとするが、その分殺伐とした気持ちになることもある。この人たちの明るさ、芯からの穏やかさ、それはそういう環境で育ったから手に入るものだと、彼らは知らない。知ったとしても身をもって理解することは少ない。そのことを見下すことも、強烈に嫉妬することもある。でも全部彼らに届くことはない。ただ私の心がクタクタになるだけなのである。

 

同じように、自分よりも育ちが悪くて、仲の悪い両親の元に育った友達たちといると、同じ経験則でものを語れるのでホッとするが、話し合えば話し合うほど深みにはまって、多分このままつるんでいても誰も幸せになれないのだろうな、というドツボ。私の方からゆっくりと離れていって、自分のことで必死だからと、見守るだけ。

 

この現象はだれにでもあることだろうけど、私はこういうときに孤独を感じやすいたちだと思う。昔からひとはみな孤独であると自分に言い聞かせてきた。実際そうだと思っている、自分以外の感情を完璧に共有することは不可能だから、人は孤独。でもだからこそ誰かと一緒にいられる。私はそう思う。

 

そういえば、カズレーザーが「ひとはどうせみんな最後には幸せになる。不幸を見つけなければ幸せでいられるんだから幸せになっちゃえばいい」というようなことを言っていて、なんというか納得したんだけれども、私としては「人は最終的にみんな死ぬ、バッドエンド前提。だけど死を悪いこととは思わない、死を恐れる必要はない」という考え方が好きでしっくりきていて、カズレーザーの言ってることもまあわかるっていうか意味あい的に逆だけど同じなんじゃない?と思ったり。う〜ん、ポジに転じた言い方をするならそうだよねっていう…伝わりますかねこれ?でも幸せを感じるかどうかって話なのかこれは。死は怖い?自分がいなくなるのは、怖い?

 

私は怖くないよ。「死」自体は。痛いのは嫌だけど。