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定まらない日記

身の回りのことを書きます。アダルトチルドレン、双極性障害。

母が乳癌になったときの話

かなり長い文章になってしまうと思う。うまく説明できるかわからない。私が家出をしたのは、2015年の11月で、もう丸1年以上が経ったわけだ。その間私が実家に帰ったのは数回で、帰らざるをえない理由があった。母が乳癌であることを聞かされたからである。

 

 

去年の11月、私は無理やり家出をして、それまでついていた仕事も辞めてしまったんだけど、それは家族からしたら本当に急な話だった。仕事を辞める2週間前には私は家族で食事をして、「いい仕事についた、仕事は楽しいよ」と言っていた。本心だったと思う。有名な漫画雑誌に関わるデザイナーの仕事。でも、急に全てを捨てたいという気持ちになって、辞めてしまった。

 

本当はその少し前から家を出ることがどうしてもおっくうで会社を休みがちになっていて、今までも学校に通うことがどうしてもおっくうで休むことが人より多かったから、私の甘えグセだと自分では思っていた。甘えグセかもしれないし、精神の波が大きいからかもしれない。とにかく耐えることが少しずつ少しずつ難しくなっていた。

 

実家から会社までの通勤が1時間50分もかかる上、残業でほとんどの日の帰宅時間が10時を回ってからで、自宅に帰りつくと12時近く。最初のうちはそんな生活にも耐えられたのだけど、だんだん辛くなってきた。家に帰っても夕飯の用意はなかった(母曰く夕飯を残しておいておくことが難しいらしい、用意しておいても私が食べないこともあったので)し、家に帰れば仕事を真面目にしていくことに関しての説教や、母の恋人の話。私は会社から30分で帰ることができる、恋人Aの家で週の半分近くを過ごしていた。もちろんそのことについてもだらしないと叱られた。

 

家を出て行きたいということは長いこと思っていたけど、実際に口に出して言ったことはなかった。説教を受けるたびに、母に「そんなに私が嫌いなら早くお金を貯めて出て行きなさい」と言われていたのだけど、私は母のことを心底嫌いだと思ったことはなかった。ただ家族の中で諍いが絶えないことが嫌だった。昔からずっと悲しかった。「私のことが嫌いなら早く出て行け」と言われるたびに、捨てられたような強い拒絶を感じた。中学生くらいのころからそう言われ続けて、行くところもないのにハイそうですかと言えるような強さは持ち合わせていなかった。

 

でも母は、矛盾するようなこともたくさん言った。母は今の父とは早く別れたくて仕方ないという状況で、自分は別にアパートを借りて半分別居という状況なのだけど、「この家だけはあなたが帰る場所として残しておくからね」とか言った。言葉のニュアンスは忘れてしまったけど、毎日私がこの家に帰ってくる、という仮定がかなり強い言葉も使っていた。私はわけがわからなかった。でも私も自分の感情を伝えることをしてこなかったから、仕方なかったのかもしれない。

 

私は母とはよく話をした。ふざけあったり一緒にドラマを見て泣いたり、一緒に出かけたり、楽しい思い出もある。でも私には、小さいころからいつのまにか、自分の本当の本心を母親に話すことができず、嘘の出来事や嘘の感情を話すクセがついていた。私が作った作り話で母は笑ってくれた。本当の気持ちについてわかってほしいと、高校生くらいのころに思い始めたのだけど、母は自分のことでいっぱいいっぱいで、私の本心の話には過剰に説教をするか、まるで興味のないこと、くだらないこととして扱われることが割と多かったように思う。私が母に「本心を受け止めてもらった」と感じたのは、高校のころ2年間片思いしていた教師に告白してフラれたとき。これは別のときに書くかもしれない。もう割とどうでもよくって、心がこのことを処理しきっているから、書かないかもしれないけど。

 

とにかく、私は「いつかここを出て行く」という決意はかなり固かったのだけど、そのことは私の家族は誰も知らなかったし、「出て行くにしろ、こんな出て行き方しかできなかったのか」ということで叱られた。私の親はまっとうなことを言う親なのだ。家庭環境はけっこう壊れていたくせに。

 

実際に会ってお叱りを受ける気力が当時全くなかった。とにかく逃げ出したかった。逃げ出して恋人と生活がしたかった。「逃げるは恥だが役にたつ」かは分からないけど、私の生活で「家族」という厄介ごとがなくなったことは、正直めちゃくちゃ心が安らいだ。その後から罪の意識にかられたり、自分を責め出したりで結局精神内科に通うことになるとは、もちろん思っていなかったわけだけど。でも遅かれ早かれこうなっていたような気がするのだった。おお正常性バイアス

 

母とはその後ラインで話していたのだけど、私がなんでも連絡をラインで済ませるから、という理由で今年の夏くらいにブロックされていた。今の連絡手段はメールなんだけど、最近「メールは金がかかるからicloudにメッセージを保存してくれ」と意味のわからないことを言われてこれまた困惑している。この連絡手段をこっちの都合も顧みずに限定してくる感じも非常にストレスなんだけども…。

 

 

 

 

とまあ、ここまでが前置き。(長い)

 

無理やり引っ越したあとすぐ、去年の12月ごろに母とラインで話し合いをした。私が家庭のことでそれなりに苦しんでいたことや、私が嘘をつきまくっていたこと、妹を殺そうとしたことがあることなどを、文章なら腹を割ることができると思ってガーーーーーッと打って送って、お互いにそれなりに歩み寄って、謝れる点はお互いに謝って、まあこれからは離れて暮らすけれどもお互い元気にやろう、くらいの着地点が一応あった。

 

1月か2月くらいだったと思う。ある日母から連絡が来て、乳癌の手術を5月にする、と聞かされた。とりあえずどうしていいか分からなくなって、しばらくは帰らないつもりだったけれどもすぐに実家に帰った。帰ってきてくれてありがとう、と言われた。1日だけ泊まって、手術の詳しい日程が決まったら教える、ということで私は帰宅した。

 

手術の日程が決まり、母は10日近く入院して手術を受けることになったので、その期間はなるべくしょっちゅう実家に帰って、妹たちにご飯を作ったり、叔母と交代でお見舞いをすることになった。私が行ったのは通算5日だったかな?入院初日と手術日と、それから2日くらいたったころと、あと続けて2日分くらい。

 

手術が始まる数時間前から病院に叔母と行った。バスが遅れて5分くらい遅刻したら「言い訳するな」と叱られた。一緒に病院に向かうバスに乗っている間、叔母は「なんで出て行ったのか色々聞いちゃうからね」みたいなことを言っていて、聞かれることは避けられないと思っていたから「わかった」としか返せなかった。叔母は私の実家の近所で一人暮らしをしており、よく妹たちや私にお菓子を買い与えたりしに遊びに来ていたから、ずいぶん動揺が大きいようだった。

 

母は元気そうだった。自分の足で歩いて私と叔母にバイバイをして、手術室に向かうエレベーターに乗った。私は手術が終わるまで叔母と2人きりで待つことになって、病院内の食堂で2人で朝食を食べた。叔母がなぜ私が出て行ったのか、の話を切り出したので、だいたい母親にラインで伝えたことと似たようなことを言ったのだけど、私と母がそれなりにこの件について和解していること(そう思っていたのは私だけだろうか)をまるで分かってくれなくて、全く似たようなことで叱られた。

 

だから私が特に印象に残ってしまったのは「私はあきちゃんの子供のあなたたちよりも、はっきり言ってあきちゃんが可愛いから、あなたの言ってることはわかるけどあきちゃんを傷つけるだけの理由ではない」というようなことを言われたこと。(あきちゃんは母のことね)

 

叔母は結婚に失敗したけれども二児の子供を1人で育て上げた根性の人である。母とは親と子ほど年が離れていて、私が中学生の時、一時期私たち家族と一緒に暮らしたこともある。私も叔母とは仲が良かった。叔母に甘やかされるのは好きだった。私が甘えすぎていた点も多いと思う。

 

母の手術が終わって、母の横たわったベッドが運ばれてきた。痛み止めを使っているのに、痛みが強いみたいで、ベッドが少し揺れるだけでも痛そうに顔をしかめていた。私はひどい有様の母を見て泣いてしまった。母は弱弱しくごめんねと言った。痛みが少しおさまると眠って、痛みがぶり返してくると目が覚めてしまうようだった。私は横についていることしかできなかった。

 

しばらくすると、もう1人の叔母がやってきて、叔母2人と私の3人でついていたのだけど、叔母たちは2人とも耳が遠い人なので、母のか細い声が届かない。母が水を飲みたがっても理解できるのが私だけだったので、結局その日は私がつきっきりで居た。

 

手術をしてくれたお医者さんから、術後の話があるから家族の人は来てくださいと言われて、なにやら狭い部屋で話を聞くことになったのだけど、「ここに癌があったので、ここからここまでを取りました、開いてみるまではどこまで転移があるかわからなかったけど、幸いリンパにまで転移はしていませんでした」という話をされ少し胸を撫で下ろしたところで、お医者さんが、母から取ったおっぱいの肉塊が入ったビニール袋を取り出した。母は年の割にけっこうおっぱいの位置が高くてきれいなおっぱいをしていたのだけど、そのことをサーーッと思い出した。お医者さんはおっぱいを袋から取り出して広げて、「このコリコリしたところが癌です」と見せてくれた。

 

話が終わって部屋を出た後で、私が母のおっぱいが本当にあんなにごっそり取られてしまったんだと思って泣いていると、叔母が「あんなもの見る経験したことないもんね、ごめんね」というようなことを言った。別にあんなにグロいものを見てしまったのがショックだったわけじゃなかった。そこは叔母もわかっているだろうけど。でもこの子供扱いされた言い方に少し腹が立った。その程度ではない、と思った。

 

次の日、母のところに行くと、咳が出るけれど痛みで咳ができず、痰がのどにつまって呼吸もままならないような状況で、看護師さんを呼んで痰を取ってもらったんだけど、その時の声がもう苦しそうで苦しそうで、でも一緒にいる叔母たちには母の苦しんでいる声が聞こえないので、私だけ泣いてしまっていた。母は痛みで全く動けないものの痰が詰まったり脂汗がでるので、次の日もなるべくついている感じだった。

 

ところで、母の手術には施術方法に間違えがあった。手術が終わったあとで、お医者さんがやってきて母に耳打ちしたのだけど、もともと乳首ごととってしまわなければならない手術だったのに、乳首を残した、ということだった。癌自体はきれいに取れたので問題はなかったが、乳首を残しておくと、術後新しいおっぱいを形作る際に、乳首が腐って落ちる(!)可能性があったという。結局乳首が残って、今は大丈夫そうではあるけど、手術を間違えるって、もう素人である私たちはなすすべが無さすぎて、である。しかも手術の方法を間違えた弊害で、手術後にしばらく体のなかに入れておかなくてはならないパイプの入れ方が、パイプを抜くときにより痛みが出る入れ方になってしまっており、通常乳癌の手術を終えた人って次の日にはけろっとしていることが多いらしいのだけど、母は次の日もその次の日も苦しんでいた。はあ…

 

もう1人の叔母の方と一緒に病院から帰る機会があって、そのときも私が出て行ったことに関する話になったんだけど、もう1人の叔母は、「今までよくグレなかったもんだよ」とむしろ私を励ましてくれた。今まであまり力になれなかったけど、たまには私の家に遊びに来たっていいんだよ、とも。ありがたかった。頼ろう、といつ思えるか分からないけど。

 

5月いっぱいで母は退院することができて、母が退院してからは私は全然家に帰らなくなってしまった。思えばこの5月末からだったと思う。私の気持ちがどんどんつらくなっていったのは。