躁鬱主婦日記

アダルトチルドレン、双極性障害。漫画家になった。

自分の欲求を叶える人生の歩み方

双極性障害になった当初よりも、はるかに冷静になったとは思う。急に泣き出したり、自分のことが嫌いすぎて何も手につかなくなったりとか、そういうことは着実に減った。ただメンタルコントロールがうまくなっただけで、何にも手につかないのは変わらないけど。

 

自分が何をして生きていきたいのかさっぱりわからなかったからいくつかやりたいことを書き出してみた。

 

・二重整形

・鼻整形

・タトゥー

・髪を伸ばす

・この家を出てAと二人暮らし

・ダイビングしてみたい

・ミュージカルを定期的に観にいきたい

 

もはや全然漫画描くこととかが入ってないという…。

 

今まで、自分にできる特技的なことが絵を描くことしかなかったから絵を意地で続けてきたけど、このまま意地を張り続ける理由がなくなってしまっていて、だから自然と手も止まったんじゃないかと思う。仕事にしたいとか、そういう理由じゃなくてアイデンティティの問題だった。特別でいたかった。

 

特別でいられるだけの意地を張れないなら普通になるしかない。どうやって普通になろう?なにかやりたいことってあるのかな?そう思って書き出してみたけど、やっぱり稼ぎがないから我慢していることばっかりだなって思った。

 

人体改造系は前からやりたいなーと思ってて、お金あったらほんと今すぐやると思う。周りからの目とか、もうニートになったり双極性障害になったりしてる時点でどうでもいいし。ここでもどこか自分に特別な意味をつけたいって願望が出てるなー。意外と、綺麗に髪を伸ばすっていうのもお金がないとできないことだよね。

 

マズローの欲求五段階説を見てとても納得したんだけど、今私が満たされている欲求って、家がある、食べ物が食べられる、生きるのに最低限必要な欲求だけなんだよね。そこからもう一段階上の欲求が「社会参加する」ってことで、私はここが全くできてない。

 

五段階の中で1番上の欲求が「自己実現」なんだけど、私にとって、漫画って「自己実現」にあてはまるなあとも思ったり…。漫画を描いてお金をもらっても、社会に参加した感じっていうのは薄いと思う。人と関わって、家の外で仕事をして、っていうのが今の私の理想だけど。そしてそれが簡単にできるなら私双極性障害克服できてるじゃんって感じだけど。

 

常にどっかいいとこがあれば悪いとこもあるっていうのは当たり前のこと。何を選んで何を捨てるかって話。私の場合は、今24歳で、社会参加してないのは大変まずいと思う。かといって社会参加しつつ漫画を描くってほど私に根性ないのは目に見えてるし。どっちかをとりあえず捨てて考えるしかない。

 

社会参加しようと本気で思うなら、双極性障害の人のための就労支援に行こうかなーと思ってるけど、それも今思ってるだけだし。

 

ここ数日そんなことばっかり堂々巡りで考えていたんだけど、自分の中でどんどん現実味を帯びてくるのは就労支援のほうなんだよね。会社に入ったからって、ひとりぼっちで家にいて黙って作業するのと特別何かが違うわけじゃないだろうけど、今後の人生のことを考えると。でもこれも漫画描けなくなったからの逃げなのかなー。いや、逃げちゃダメなんて誰も言ってない。てか働く時点で逃げではないし。

 

もっと人間らしい生活したいな。

手が止まってしまった

先週から強い倦怠感で、仕事の手が止まってしまった。仕事って本来生きていくためにするもので「仕事の手が止まった」なんて言っていてはいけない、そう思う。自らの意思で止められるようなもんじゃないから仕事なんであって。でもだめだ…。

 

強い倦怠感のせいで先週は精神科にも行けなかった。だから今は薬が完璧に切れている。薬って飲まないとゆっくりと血中濃度が落ちていくけど、もう5日は飲んでないから、多分完全に切れている。日曜日から一歩も家の外に出ていない。

 

こういう精神の波を消すために薬を飲んでいるはずなのに、ちょっとした嫌なことがあるとすぐに睡眠時間はバラバラになるし、体調を崩すし、これを病気とかもう呼びたくない。ただの気分のムラ、甘え。そのほうがずっとしっくりくる。しっくりくるからどんどん自分を責めてしまう。

 

もう自分の部屋でこもってする仕事なんて辞めてしまおうかなとも思う。本当は人と関わりたいと切に思っている。でも無理だな。いや、無理をしろよそこは。でも無理だよ。その繰り返し。

 

人と関わることにものすごくストレスを感じるし、それが心地いいストレスの時ももちろんある。けどどうしても消せない過去のこととか思い出してしまったり、自分が意志薄弱で最後までできなかったこととか思い出したり。いつからこうなっちゃったんだろう。人が怖い、自分が憎い。その連鎖の断ち切り方がわからない。断ち切れずひきずるしかないんだとしたら…。

 

もちろん今やってる仕事を今やめたからって、やりなおせないことはないし、長めの休みを取ることはできる。というか今現状、少し長めの休みをもらうことにして、休息しようとしてるとこ。

 

考えてみれば、去年の8月からずっとこの仕事のために、体調整えながら準備してきたのに。どうして今になって手放すのが全然怖くないのか。恐怖は後から来るってわかってる。

 

自分がしたいことを、自分の責任で仕事にするのか、誰かに雇ってもらって、生きづらさを誰かのせいにするのか、どっちかを選択しなくてはいけない。病気とはいえもういい年齢、焦る。

 

今この仕事を辞めてしまったら後悔するだろう、どんな形の後悔かも想像がつく。なのにどうして手が動かないの。

ツイッターやめてみた

1週間ほど前にツイッターをやめた。やめたといっても「やめます宣言」しただけでアカウントはそのままだけど。意外とたくさんの人が「また会いましょう」とか、実際に会う約束取り付けてくれて嬉しかった。

 

私の性格上「これはやめます」と大勢の前で言ったことは絶対にやめるタイプ。半年くらい戻らないつもりだけど、多分それも実行されるだろう。

 

なんかやっぱり、ツイッターの使い方を根本的に間違っていたような気がする。呟くということが「人に何かを認めさせたい」という気持ちから始まるのって、普通の自己顕示欲ではあるけれども、今の私には些か扱いが難しすぎる。

 

もう素敵な情報をRTしてみんなにみてもらおうとする必要もないし、友達の投稿にいいねする必要もない。正直、自分から発言することよりもこの2つが、ツイッターにいる大きな理由だったような気がする。

 

この2つが大きかったのって、人と繋がっているような気持ちにさせてくれたからだと思う。でも現実の私は部屋でひとりで夫の帰りを待っているだけだ。まだやめて1週間たらずだけど、もうTL警備も1日1回しかしないし、それで十分だということがわかった。もう自分が見ていない投稿を端から端までチェックしなくていい。

 

一昨年にネット上の友人たちと仲違いしてからは、だいぶ深刻なまでにネットに張り付くようになったと思う。それぞれに別垢が存在して、仲のいいもの同士で固まって悪口を言い合っているような、その中にいるとどこか認められているような気分になる居心地の良い集団。それがだめとは言わない。私の中にある汚い感情もこのブログに書いてあるように、そういう場所は必要。

 

でもそこからつまはじきにされたような気持ちになって、ネットに張り付いて、別垢でのリプライを追って、みたいなことをしばらくしていたらツイッターの全部に目を通す癖ができてしまった。時間を吸われるしいいことはない。でも双極性障害になってすぐの私には、ベッドで横たわっている時間しかなかった。だからツイッターにのめりこんでいた。

 

ツイッターやめようかな、くらいのテンションでいたことは何度もあったけど、本当にやめたときの勢いはすごかった。「今やめたい!!」と思って、5分後には「やめます」と呟いた。結果的に、良かったと思う。私に会いたいと思ってくれている人もはっきりわかったし。これからまた呟きたいなと思うシーンはいろいろ出てくるのだろうけど…。どうかな、呟くかな?

 

自分を好きになる能力

あけましておめでとうございます。

 

自分を愛する能力がないと、本当にこの世界では生きづらいなと新年早々に思った。

 

もともと自己肯定感が高い人だって大勢いるのは知ってるけど、そういう人たちが心底羨ましい。ただでさえ生きにくいこの国で、自己肯定感さえあれば、容姿が何であれ空気が読めなくたって性格が最悪だって、当人は幸せなんだろうと思う。

 

誰かが幸せを感じているとき、それが当たり前だったときでも、そのときだけの幸せでも、誰にもそれを貶めることは残念ながらできない。残念ながらってわざわざ書くのが性格最悪なんだけど。

 

誰かが幸せになるのと私が幸せになるのとではまるで違うことで、関係ない。

 

でも、幸せを感じられることの条件が、自己肯定感なのは間違い無いと思う。本当に残念なことに、私は自己肯定感が低く、幸せを感じづらい。自己肯定感が低いと、幸せのハードルが日常から高めに設定されている。

 

大げさだけど「どうして私がこんな目にあうのだろう」と自己肯定感が低い人が思っているとき、全く同じときに「こんな経験させてもらえてラッキーだな」と自己肯定感が高い人は考えているのだろうと思う。幸せのハードルが高いとか低いとかはこういう話である。

 

人というのは、現状維持や不幸になることよりも、幸せになることのほうに恐れを感じやすいのだそうだ。上がったらいつか下がる、それに対する恐怖の方が勝るらしい。

 

私も作家として2月にはデビューするけど、その気持ちはわかる。作家になりたくてしょうがないような人もいる。なのに私がいきなり連載をもつことは相当ラッキーなことなのに、今幸せかと言われたら、一時期ほどではないが不安が強い。恐怖。

 

まあそれはそれとして、自分を好きになれるかなれないかで、まず他人を幸せにできるかできないかも決まる。自己肯定感が低ければ、好きになってくれる人のことを信用できない。信用できても、時間がかかる。そうやって時間を割いてくれる人は少ない。よって友達や知り合いは必然的に少なくなる。

 

自分を好きじゃないと、なにかに挑戦できなくなる。足がすくむ。こんなことを始めるような器じゃないし、誰かにバカにされているように感じる。今でさえ最悪なのに、失敗したらもっと最悪なのでは、とバカバカしい感情から行動しなくなる。感情が引きこもる。

 

そういう時間をいくつもいくつも経て、どんどん卑屈になり、私は双極性障害になった。自分のことを好きになれる日がいつかくるとは思えないけど、病気が回復してきて、「あの性格の悪い部分は病気だったのか」とか、逆に「あそこはもともと性格が悪かったんだ」とか思えるようになった。だから、自分の存在が少しづつフラットになってきた。

 

前みたいに、私はここにいてはいけないと思う回数が減った。今住んでる家以外の場所ではちょくちょく感じているけど。

 

自分のことが好きな人っていうのは、まずそんなことに疑問は持たないんだろう。それが羨ましい。ただでさえどんどんおかしくなってきているこの日本で、自分のことを好きになれる人、もともとは自分が嫌いでもなにかで自信をもつことができる人は強い。私も早くそうなりたい。無理かもしれないけど。普通になりたい。病気を治したい。

年の瀬。

2017年も最後の日。やっぱりひとつの節目を感じる。

 

2017年は私にとっては辛い時期だったけど、同時に回復の時期でもあったと思う。双極性障害の診断を受けてから、薬を飲み始めて、量がどんどん増えていって不安だったけど、今は多少安定している時間が多くなったから、薬が効いているんだと思う。

 

本当は薬なしでも安定した状態を保てるといいんだけど。どうしても、過去に失敗したこととか、まだ想像もできない未来のことシュミレーションしてみたりとか、そういうのが抜けない。どんな人でも多少はそういうのあるでしょうけども、私の場合そればかりで1日潰れるから、どっちが偉いとかそういう話じゃないけど、ぼんやりと過ごす時間が必要なのは変わらない。

 

子供のころから「気働き」をしろと親に散々言われ続けて、気働き自体はできるようになったかもしれないけど、気が使えるかわりに、気が使えない人の分まで面倒みたりとか、正直そういうことが増えてくるのはストレスしかないわけで。妹たちももれなくそういう教育を受けているから、これから先どうなるのかちょっと不安だったり。

 

母親の愛情ゆえなのはわかってる。頭では。でも気づかなくてもいいことまで気づいてしまう性格に育ったのは、現代社会では割と損を食うなあと思う。その話はさておき。

 

少しづつ回復して、少しづつ仕事も進めて、少しづつ親と和解して。今年のキーワードは個人的に「すこしづつ」だったかなあと思います。

 

来年も少しづつ頑張ります。

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ツレがうつになりまして。観た

先週1週間実家帰った影響か、生理前だからかわからないけど、今また仮眠期間。おきてられる時間が合計で10時間くらいしかないんだけど、仕事進めずにアプリやったり映画見たりしてる…。

 

そんで、かなり今更ではあるけど、観た。

 

厳密には鬱と双極性障害(躁鬱)はちがうものなんであれですけど、やっぱり自分の体験と重ねて見れる映画だから、鬱になったことのない人が見るよりも感動したんじゃないかなーと思った。

 

私にとって、「はるさん」はAのことだし、「ツレ」は私自身だ。

 

私も鬱の中を通り抜けて今があるからツレの気持ちはすごいよくわかるし、いつでもどこでも泣き出すのも本当にそうだよなあと思うんだけど、その姿って通り過ぎて今客観的に見ると滑稽だね。蔑む意味合いではなく、おもしろいね。ピエロ的な。

 

結婚式の誓いの言葉、「病める時も健やかなる時も」って、結婚式は挙げていなくてもAはまさしく私のためにそうしてくれていたよなあと思った。

青春時代に着ていた服によって自分の人生は決まる、という話

私はデザイン系の専門学校に行ったので全くコンサバというものに触れてこなかったのだけど、世間一般ではコンサバがいかに主流なのか、最近それがじわじわ来てる。

 

デザイン系の専門学校に行った時点で、学生のファッションの主流はナチュラル、カジュアル、モード、原宿系、パンク、ゴスなんかに大別される。コンサバ、ギャル、ガーリーは希少。

 

それが普段見慣れたせいで、むしろ世の中の多くのサラリーマンの服とか、OLの着てるような服はダサいと思い込む。今でもその呪縛は解けていないけど。コンサバ系の服に1万使うならモードブランドで3万使いたい。分かる人には分かると思う、この感覚。

 

最近、フェイスブックでみかける旧友たちの写真などを見て、ひょっとしてコンサバって世の中で1番主流なんじゃ…??似たような形の服多いしコーディネートもしやすそうだし…!ということに気づいてしまった。

 

そして、青春時代に着ている服によってその後の自分の人生も決まっていくんじゃないかと思う。

 

というのも、やっぱりコンサバ系だと卒業後一般企業に就職して馴染みやすいし、モードを着ていた子たちはショップ店員したりなんだり。彼氏がどの層でできるかも、着ている服にかかっていると思う。

 

コンサバを着ている女子の彼氏は間違いなくリーマンだし、彼氏の方も多分シンプルな服。スーツばかり、休日もジャケット。そんな感じでしょう。そしてお互いちゃんとした企業で正社員、もしくは派遣社員をしている。なぜなら大学を出て即就職したからで、就職できたのは無難であるからだ。

 

ここまで言うとただのコンサバディスみたいに見えるかもしれないが、世の中が求めているものは無難であることなんだと思う。

 

小さい頃から大人になるまで、そして今に至っても、私は「個性が大事」ということを何度も何度も刷り込まれた。ひとりひとり違う人間、個性は尊重されるべきもの。

 

そう教わってきたデザイン学生が、服で自己主張したくなるのも当然だと思う。というか、服を着ることを自己主張としてとらえている人間はけっこう多いと思う。

 

もちろん服に無頓着、着られるものがあればいいと思う人も多くいる。しかしそれは、「服は自己主張をする一部」だと思っている人間からすれば、「私は服に無頓着です」というひとつのアピールにほかならない。

 

そこで、コンサバである。コンサバは強い。コンサバな服を好んで着ることができている時点で強い。「無個性に見えて無個性でない、無難な美しさ」。それを選択して着ていることが慎ましいし、そういう慎ましさが日本人らしくも思える。だから多くの人がコンサバを着る。そしてジュエリーだけ、少々高級なものを身につける。なんだろう、この正しさでぶん殴られる感じ。

 

道を歩いている人のファッションをついついチェックする。昔は尖ったファッションの方が可愛いと思っていたのに、最近は普通にほわほわした女の子のほうが可愛いとおもってしまっている自分がいる。ガーリー、コンサバ。それは憎むべき対象だったのに。

 

だいたい、モードの波はもう終わってしまったと言っていい。各種尖ったファッションの雑誌は軒並み廃刊し、ファッションスナップに出てくるコーディネートも、どこかで見たことあるようなのばかりだ。ちょっと尖ってるくらいなら、コンサバに擬態して生きた方が楽なんじゃないかとさえ思えてくる。

 

かといって私の人生が、コンサバな服を着ていたからどうなったとか、そういうことを考えるだけ無駄なのもわかっている。でも年齢的にコンサバを見直す時期に来たんだなあと、少し大人になってしまった自分のことを記録しておきたかったのだった。